監督としてもオスカー受賞

衝撃の実話!チェンジリング

監督としてもオスカー受賞

チェンジリングでは出演していませんが、監督を務めたクリント・イースウッドはハリウッドを代表する名優です。今回の作品では自分に適した役柄がないということでスクリーンには登場していませんが、チャンジリングの音楽も担当していてその才能を存分に発揮しています。俳優としては、数々の西部劇やアクション映画に出演していてトップスターの地位を確立しているほか、監督としてはアカデミー賞作品賞と監督賞を2度受賞しています。

どうして、クリント・イーストウッドはチェンジリングでも音楽のスコアがかけてしまうのか?!という点では、もともとジャズに対する造詣が深いからです。イーストウッド家では代々ジャズを嗜好していました。クリントの祖母の代から始まって、クリントの息子カイル・イーストウッドはジャズ・ベーシストとして活躍しています。

クリント・イーストウッド自身も、クラブでピアノを演奏したこともあります。かつては音楽を勉強しようとシアトル大学に入学したほどでしたが、生活費を稼ぐために大学はやめざるを得なかったといいます。

ジャズに造詣が深いだけに、ジャズの巨匠チャーリー・パーカーを題材にした『バード』を監督して、プロデューサーとして『セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー』を製作しています。『チェンジリング』だけではなく、『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』でも、音楽担当のクレジットにその名を連ねています。『さよなら。いつかわかること』では初めて音楽だけを担当しています。

クリント・イーストウッド略歴

1930年(昭和5年)5月31日に、父クリントン・イーストウッド・シニアと母モーガン・イーストウッドの間に誕生しました。クリント・イーストウッドはスコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4か国の血をひいています。家系はメイフラワー号の乗員で、港町プリマスを統治したウィリアム・ブラッドフォードを先祖とする名家ですが、幼い頃の生活は世界恐慌の煽りを受けてとても苦しいものでした。

オークランド・テクニカル・ハイスクール卒業した後は、朝鮮戦争の真っ只中の1951年(昭和26年)に陸軍に召集されて入隊しています。2年後の1953年(昭和28年)に陸軍を除隊した後に、サウス・カリフォルニアに移住して、アルバイトをして生計をたてる傍らで、ロサンゼルス・シティ・カレッジの演劇コースを専攻します。1950年代の初めにユニバーサル映画と契約を結びますが、俳優として活動し始めた当初は『半魚人の逆襲』『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』といったB級映画の端役しか与えられなかったという、不遇の時代を過ごしています。

カウボーイ役からブレイク

1959年(昭和34年)からテレビ西部劇『ローハイド』(CBSで放映)で、ロディというカウボーイを演じます。この『ローハイド』は約7年間の間に220話近く製作された人気シリーズとなりました。この『ローハイド』の成功で、イーストウッドの知名度と人気は世界的に高まりました。

1964年(昭和39年)にはイタリア人の映画監督のセルジオ・レオーネ監督にイタリアに招かれます。そしてマカロニ・ウェスタンと呼ばれるまさにマカロニ・ウエスタンを代表する作品となった『荒野の用心棒』に出演します。その後も『ローハイド』の撮影の合間を縫って『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と3作のレオーネ作品に出演しました。この3作品で、イーストウッドが演じたのは名無しの男です。イーストウッドはレオーネを師と仰いで、レオーネが逝去するまでレオーネとの交友を続けました。これらの映画の人気によって、イーストウッドの映画俳優としての評価はまずはヨーロッパの方で先行して、ヨーロッパでの人気がアメリカに逆輸入された形となりました。

『マンハッタン無宿』で出逢ったドン・シーゲルと再びタッグを組んだ『ダーティハリー』でイーストウッドは型破りな刑事ハリー・キャラハンを演じています。これはシーゲル作品として今までの中で最大のヒットとなりました。またイーストウッド本人もこ『ダーティハリー』の作品で人気アクション・スターとしての地位を不動のものにしました。いまでもクリント・イーストウッドの俳優として代表作として真っ先に挙げられるのが『ダーティハリー』です。『ダーティハリー』シリーズは、この後4作品が製作されています。

監督としての成功

1968年(昭和43年)に映画制作会社マルパソプロダクションを設立しました。1971年(昭和46年)に『恐怖のメロディ』で初監督を務めます。俳優業をしながら『荒野のストレンジャー』『アウトロー』などの作品を立て続けに発表しています。監督業に進出した他の役者と違って、「大作」や賞レースに関わる作品への出演はしないで、自身のプロダクションで製作した小規模なものやともすればB級とも呼べる作品だけを主演しつつ、監督業と俳優業を両立しながら地位を確立していきました。

1987年(昭和62年)の第45回ゴールデングローブ賞では、生涯の功績を称揚するセシル・B・デミル賞を受賞しています。

1992年(平成4年)に、自身の師でもあるセルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げた“最後の西部劇”『許されざる者』を監督兼主演で制作しました。『許されざる物』で第65回アカデミー賞監督賞、作品賞を受賞。第50回ゴールデングローブ賞監督賞を受賞しています。この頃から『マディソン郡の橋』『ミスティック・リバー』といった文芸性の高い作品も手がけるようになりました。

2004年(平成18年)の『ミリオンダラー・ベイビー』で、2度目となるアカデミー作品賞とアカデミー監督賞のダブル受賞を果たします。受賞したときには74歳という、最高齢での受賞記録を樹立したバイタリティは、アクション映画で培われたものだろう驚嘆の元に迎えられました。アカデミー主演男優賞はノミネートにとどまりましたが「単に監督もできる俳優」ではなく、「アクション映画から文芸映画まで幅広くこなせる、優れた監督兼俳優」という評価を確立しました。

2006年(平成18年)に『父親たちの星条旗』・『硫黄島からの手紙』の映画2部作品を発表しました。これはアメリカがかつての日米戦争で最大級の痛手を受けた「硫黄島の戦い」を、日本とアメリカ双方の視点から2作に分けて描くという方法で製作されています。

『硫黄島からの手紙』は、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞作品賞・第32回ロサンゼルス映画批評家協会賞最優秀作品賞を受賞して、2006年の賞レース最大の目玉として注目を浴びていましたが、アカデミー賞では音響編集賞のみの受賞にとどまりました。2007年1月に『硫黄島からの手紙』でゴールデン・グローブ賞最優秀外国語映画賞を受賞しています。

受賞歴

アカデミー賞やゴールデングローブ賞だけではなく、叙勲も授与されています。2007年2月17日に、フランス当時の大統領ジャック・シラク大統領から監督としての功績が認められて、『レジオンドヌール勲章』を授与されています。2009年4月29日には、「春の外国人叙勲」で日本政府から「映画製作を通じた日本とアメリカ合衆国との相互理解の促進に寄与」とした功績によって、旭日中綬章を授与されています。

ゴールデングローブ賞

  • 1971年(昭和46年): 世界人気男優賞
  • 1987年(昭和62年): セシル・B・デミル賞
  • 1988年(昭和63年): 監督賞 / 『バード』
  • 1992年(平成4年): 監督賞 / 『許されざる者』
  • 2004年(平成16年): 監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』

アカデミー賞

  • 1992年(平成4年): 監督賞 / 『許されざる者』
  • 1994年(平成6年): アービング・G・タルバーグ賞
  • 2004年(平成16年): 監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』(74歳の史上最年長受賞)

カンヌ国際映画祭

  • 1988年(昭和63年): フランス映画高等技術委員会賞 / 『バード』
  • 2003年(平成15年): ゴールデン・コーチ賞(功労賞)
  • 2008年(平成20年): 第61回記念特別賞 / 『チェンジリング』

ヴェネツィア国際映画祭

  • 2000年(平成12年): 名誉金獅子賞・特別功労賞

LA映画批評家協会賞

  • 1992年(平成6年): 監督賞・男優賞 / 『許されざる者』

NY映画批評家協会賞

  • 2004年(平成16年): 監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』
衝撃の実話!チェンジリング